「祝福を受ける日」 04.02.29
ルカ13:10〜17
神さまは、私たちのために礼拝の場を毎週備えてくださいます。
私たちを祝福するためにです。この場面で主イエスと出会った女性には、
礼拝をする者の典型的な姿があります。
主イエスは「その女を見て呼び寄せ…」とありますように、礼拝は、
呼び寄せられたからこそ、可能となります。主が呼び寄せてくださることが
なければ、この女性がそうであったように、イエスさまとの深い出会いは
ありません。
また、呼び寄せられるのは、主が目を注いでおられるからです。
大勢の人ではなく、その女性を見つめて呼ばれたのです。礼拝をする
一人一人は、主のまなざしに包み込まれて、呼び寄せられた者です。
その恵みを知るべきです。礼拝には、神さまから私たちへの奉仕という
側面があります。礼拝がなされないことで困るのは神さまでなく、
人間の方です。私たちが真に人として生きるために、神さまは、礼拝を
備え、そこに呼び寄せてくださいます。
神さまは、礼拝を解き放たれる時として備えてくださいます。
この女性は、病から解き放たれただけでなく、サタンの思惑からも解き
放たれました。それまで、自分の置かれている悲しい現実に心奪われて、
神さまへの信頼を失い、自分を責め、自分は神さまに愛されていないと
思い込んでいました。まさにサタンの思惑通りです。
しかし、主は「そうではない」と言わんばかりに、その女性に手を置かれ
ました。この女性は、主によって、自分が神さまに愛されていることを
知らされ、神さまを賛美できるものに変えられたのです。
礼拝で告げられるのは、自分に向けられている神さまのご愛です。
神さまのご愛の深さを知るための十字架が掲げられます。
罪と死から解き放たれていることを確認するために聖餐の食卓を囲みます。
罪が洗い流され、新しく生まれた自分であることを確認するために
洗礼盤が置かれます。
私たちは、自分が神さまに愛されていることを聞かされ、
見せつけられる礼拝の場にいます。
そこから、健やかな歩みは始まります。